共産主義とは為政者が富を独占するための偽善的理想主義である。もちろんそれは決して持続可能なものではない。
共産主義の掲げる「平等」は、貧者や怠惰な人々には心地良く、彼らの多くから支持を得るには十分なものだろう。だが、そんな共産主義も実は、最終的に彼らの生活を破壊してしまう、凶悪な自滅イデオロギーなのである。
共産主義社会においては、働き者も怠け者も皆平等に生活が保証されるため、社会に貢献すること(働くこと)へのインセンティブ(それが目に見える形となったモノが“カネ”)がない。インセンティブがなければ、モノやサービスを生み出そうと考える者達も出て来ないだろう。
にも拘らず、共産主義社会においてもやはり、“より良いモノやサービス”を享受したいと考える人々が減ることはないのだ。それは、今の中国やその他の共産主義国を見ても分かる通りである。
だが、そもそも“より良いモノやサービス”というのは、何かしらのインセンティブのために努力する者達が生み出すモノであって、怠け者が生み出す蓋然性はかなり低い。つまり、共産主義社会ではここに大きな矛盾が生じるのだ。
そこで共産主義国の指導者は、この矛盾を解消するために国民の洗脳を試みるのである。指導者は国民のカリスマを創出し、カリスマに報いることが最高の幸せだと国民を洗脳する。これは共産主義国が政府主導で国民に事実上の無償労働させる上で非常に重要なのである。共産主義は宗教を否定するが、人々を信者にして無償労働させるやり方は、まさに宗教そのものである。
人間が自由と合理性を捨てて、アリのように生きられるという前提ならば、共産主義社会も十分に持続可能なものとなるだろう。だが、残念ながら人間という生き物は、そのようには作られていない。必ず抜け駆けを考える者が出てくるのである。そして、抜け駆けした者達がその社会をハンドリングするようになり、そこから当初の理想が崩壊して逝くのである。これは結局のところ、最終的に共産主義社会におけるピラミッド構造の全階層が総負け状態になることを意味する。(ちなみに、「平等」を謳いながらピラミッド構造ができてしまうのも共産主義の矛盾の一つである。)
もちろん、全ての人間が自立できるだけの知力を手に入れられるのであれば、共産主義が台頭する余地などないだろう。だが、実際の社会は残念ながらそうではない。社会には必ず知力の弱い者達が一定数存在するものである。彼らは一人で生きる不安から逃れるためにとにかく他者に縋ろうとするのだが、慈善の皮を被った共産主義者は彼らの心の隙に巧みに入り込むのである。
このような者達を共産主義という自滅的イデオロギーに感染させないためには、やはり反共的な宗教やカリスマ(例えば天皇)のようなものも世の中には必要なのかも知れない。俺自身は“反宗教”を主張してはいるが、このような理由から、反共的な宗教というのは一種の必要悪みたいなものなのかも知れないと思っている。
ソ連が崩壊して共産主義の敗北が確定的となった1991年からほぼ四半世紀が経った今、上記のようなことは今更言及するほどのことでもないのかも知れないが、共産主義の矛盾と危険性を常に意識しておかねば、人間は理想の社会を追い求めるうちについつい共産主義者の罠に嵌ってしまうものである。もしあなたが本当に貧しい人々を助けたいと思うのなら、共産主義者が御膳立てした偽善に騙されないよう注意が必要である。
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